Se connecter小雨が、車のフロントガラスを細かく叩いていた。
朱里は助手席で、静かに手元のカップを見つめていた。映画館を出たあと、嵩が「ちょっと温まろう」と立ち寄ったドライブスルーのコーヒー。紙コップの中の温もりは、もうほとんど残っていない。「雨、やみそうにないな」「ですね……」 短い会話のあと、ふたりの間にまた静寂が落ちた。 ワイパーが一定のリズムで窓を拭うたび、朱里の心も少しずつ整っていくようで、でも同時に、どこか締めつけられるようでもあった。「……楽しかったです。今日」 朱里がそう言うと、嵩はゆっくりと視線を向けた。「俺も。なんか、時間が早かったな」「本当に。あっという間でした」 たった数時間なのに、何日分もの感情が詰まっている気がした。 沈黙を破るように、嵩が小さく息をついた。中谷朱里は、スマートフォンを伏せたまま、しばらく動けずにいた。 画面に表示された嵩からの短いメッセージは、もう何度も読み返したはずなのに、胸の奥でまだ反響している。 ——ありがとう。 ——あのとき、言われなかった言葉に救われました。 それだけだった。 理由も説明も、感情の整理もない。けれど、朱里には十分すぎるほどだった。 「……そうか」 誰に向けるでもなく、小さく呟く。 伝えなかったことが、誰かを前に進ませることもある。 それは、勇気を出して話すこととは別の、もうひとつの選択だったのだと、今さらながら実感する。 キッチンから、田中美鈴の声がした。 「朱里ー、そろそろ行く時間じゃない?」 「はい、今行きます」 立ち上がり、コートに腕を通す。 鏡に映る自分は、少しだけ表情が柔らいで見えた。 「……よかったですね」 ふいに、美鈴が言う。 何のことかは聞かなくてもわかる。 「はい。でも、何かが終わったって感じじゃなくて」 「うん?」 「始まった、というほどでもなくて……ただ、ちゃんと“今”に戻ってきた感じです」 美鈴は一瞬考えてから、笑った。
定時が近づくにつれて、 朱里の集中力は、少しずつ削れていった。 時計を見るたびに、針が進むのがやけに遅い。 (あと一時間……三十分……) 仕事は終わる。 でも、今日の本番はその先にある。 「中谷」 低い声に、肩が小さく跳ねた。 振り向くと、美鈴が立っていた。 いつも通りの、落ち着いた表情。 「今日、定時で上がれる?」 「……はい。大丈夫です」 朱里の答えを聞いて、美鈴は一瞬だけ視線を細めた。 「そう。じゃあ、無理しないで」 それだけ言って、去っていく。 詮索も、励ましもない。 でも―― (知ってる) 美鈴は、何かを察している。 それを言葉にしないのも、彼女なりの距離の 取り方だ。 午後六時。 PCをシャットダウンし、立ち上がる。 周囲の音が、いつもより遠く感じる。 エレベーター前に向かう途中、 ふと視線を上げると―― 嵩がいた。 壁際
午後三時過ぎ。 朱里は画面に向かったまま、マウスを握りしめていた。 資料の文字はちゃんと目に入っている。 入力も、確認も、できている。 ――なのに。 スマートフォンが、机の上で震えた。 それだけで、思考が一瞬止まる。 (……違う、仕事中) そう思いながらも、 視線はもう、スマートフォンのほうへ落ちていた。 画面に表示された名前。 平田嵩 胸の奥が、きゅっと縮む。 通知を開くまでに、三秒。 その三秒が、やけに長い。 《今日、帰りに少し話せる? 重い話だけど、ちゃんと向き合いたい》 短い文章。 言い訳も、逃げ道もない。 朱里は、すぐに既読をつけなかった。 (……来た) 昨日の夜、 「全部言わない」と決めたはずなのに。 いざ“話す”が現実になると、 心臓が一気に騒ぎ出す。 重い話。 分かっている。 きっと、転勤のことだ
送信してから、ほんの数秒。 それだけで、嵩は自分がどれだけその返事を気にしているかを思い知らされた。 スマートフォンを伏せたまま、指先だけが落ち着かない。 机の上で、無意識にペンを転がす。 (返事は、すぐじゃなくていい) そう思って送ったはずなのに、 「すぐじゃなくていい」という言葉は、 “いつでもいい”と同じではないことを、今さら理解する。 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。 嵩は立ち上がり、給湯室へ向かった。 コーヒーを淹れる必要なんて、もうないのに。 そこで、望月瑠奈と鉢合わせる。 「あ、平田さん」 いつも通りの声。 いつも通りの笑顔。 でも、今日は少しだけ、視線が鋭かった。 「今日は……なんか、静かですね」 「そうかな」 「はい。静かというか……考え事してる人の背中です」 図星すぎて、笑うしかなかった。 「よく見てるね」 「後輩ですから」 冗談めかして言いながら、瑠奈はマグカップを持つ手を止める。 「……中谷先輩と、何かありました?」
翌朝。 嵩はいつもより少し早く会社に着いた。 誰かと約束があるわけでも、急ぎの仕事があるわけでもない。 ただ、昨夜の続きを、頭の中で終わらせたくなかった。 デスクに座り、コーヒーを一口飲む。 苦味が、やけに現実的だった。 (朱里は、言わなかった) それが、どうしても引っかかっていた。 「好き」とも言わなかった。 「一緒にいてほしい」とも言わなかった。 引き止めもしなければ、突き放しもしなかった。 それなのに── あの夜は、逃げなかった。 嵩はPCを立ち上げ、業務メールを確認する。 その中に、見慣れた件名があった。 【人事異動に関する最終確認】 胸の奥が、ひくりと動く。 “ほぼ確定”だった転勤は、 もう“いつ・どう伝えるか”の段階に入っている。 昨夜までは、 「もう少し一人で抱えよう」 そう思っていた。 でも今は、違う。 朱里は、全部を預けなかった。 だからこそ、嵩も“全部を一人で決める”必要はない。 (選択を、共
朱里と別れたあと、嵩はしばらくその場を動けなかった。 時計を見ると、思っていたより時間は経っていない。それなのに、胸の奥には、ひとつの夜を越えたあとのような静けさが残っていた。 朱里は、すべてを語ったわけではなかった。 迷っていることも、不安も、言葉にした。 でも──決定的な一言だけは、最後まで口にしなかった。 「……言わなかった、んだな」 歩き出しながら、嵩は独り言のように呟く。 それが何だったのか、具体的にはわからない。それでも、あれは“言えなかった”のではなく、“選んで言わなかった”のだと、なぜかはっきり感じていた。 帰り道、朱里の声が何度も思い出される。 「まだ、自分の言葉じゃない気がして」 「決めたら、それは逃げじゃなくなるから」 彼女は、自分の弱さを差し出した。 でも、嵩に寄りかかる形ではなかった。 答えを預けることもしなかった。 それが、少しだけ寂しくて──同時に、ひどく誇らしかった。 嵩は立ち止まり、夜空を見上げる。 もし、朱里があのとき「一緒にいてほしい」と言っていたら、自分は迷わず頷いただろう。 もし、「離れるかもしれない」と言われていたら、引き留める言葉を探しただろう。 けれど、朱里はどちらも言わなかった。







